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部族の絨毯と布 caffetribe

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部族の絨毯と布

『赤穂緞通を尋ねて』-2

かつては塩田の町として知られていた、赤穂市の沿岸地域にあたる御崎に手織り絨毯の工房が置かれていた。

■男は塩田で働き、女は緞通を織るというのが、明治から大正、昭和初期にかけての赤穂(当時の新浜村)の風景であったようだ。塩田での重労働の合間に緞通を織る事もあったようで、母親は幼児を連れてきて、織り機の傍らに子を座らせて織っていたようである。子供たちは自然に織ることを覚え、12~13歳ごろには緞通織りになじんでいたようである。
小学校を出てから覚えるのでは、『手が遅い』といわれ、それ以前から糸の取り方などに親しんでいたのであろう。
ちなみにオリエントの部族系絨毯もまったく同様に、母から幼子へ受け継がれてきたものである

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■明治31年(1898年)には、明治天皇のさらに翌々年の明治33年には皇后のお召し列車の専用敷物として、天蚕を使用した赤穂緞通が採用されたようである。
そのころから、新浜村では緞通業を始めるものが増え、生産量が圧倒的に増えて、大正4年(1915年)には、オーストリアに輸出されるなど、大正期から昭和の初めまでが、赤穂緞通の最盛期であったようだ。

■この裏側には、赤穂緞通生みの親である児島なか女史から緞通製作の基礎を受け継いだ早川宗助氏による、技法・意匠・品質の改良という絶え間ない努力があったようである。

■昭和12年(1937年)赤穂緞通の核ともいえる木綿素材の入荷事情が悪化する。大戦へと向かうなか、同年の10月には綿花の輸入制限など経済統制がしかれ、緞通工房の閉鎖を余儀なくされる。

■大戦後、昭和26年(1951年)から緞通織りが再開するものの、手織り絨毯という最も時間のかかる手作業は、大量生産、大量消費のマーケットというレールの上から落ちこぼれ、次々と織り工房は廃業し、ついには御崎の西田工房一件だけが残る。

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■絨毯とタピストリーという雑誌に紹介されている『赤穂緞通をたずねて』という故安藤武子さんの記事によれば、昭和35年(1960年)当時の西田工房には4人の織り手があり、みな戦前から技術を持つベテランばかりだが、この人達が年を重ねてやめてしまえば、ここの絨毯織りは途絶えてしまう。
西田さんは「趣味としてでもいいからこの技術を習い覚えてくれる人がいたら残していきたい」と語っていた。「赤穂緞通の織り機の特徴は水平に置かれた横機である。また、赤穂緞通ならではの鋏による摘みの技術も残しておきたい・・・。」

■こうした思いと赤穂市の相互の努力により伝統産業の継承と後継者の育成というプロジェクトがスタートし、西田工房で最後まで技術を身につけていた坂口きりえさんを先生に厳しい研修の中で、しっかりと伝統技術が伝えられたのである。

■この加里屋工房は4年の歳月をかけて赤穂緞通の技術を習得した第1期生の方々によって設立され現在も、ほぼ毎日絨毯を織る機の音と、鋏で糸を摘む(調糸)する心地よい音が響いている。このほかにも2期生を中心とした中広工房でも絨毯の伝統が繋がっている。
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■工房内には独特の遊牧民などと同じスタイルの水平機(ヨコ機)が所狭しと並べられいる。
 ちなみにペルシア絨毯などの都市工房の手織り絨毯の織り機は垂直機(タテ機)が多い。
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■織り機には、鮮やかな緑色の赤穂緞通が完成を待っている。

上で紹介させていただいたのは、いずれも「赤穂緞通を伝承する会」の加里屋工房です。
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by caffetribe | 2006-06-30 18:50