ブログトップ

部族の絨毯と布 caffetribe

caffetribe.exblog.jp

部族の絨毯と布

赤い絨毯との出会い。

そもそも「赤い絨毯」と出あったのは20年前の旅でした。
a0051903_23104015.jpg

             ≪1988年 イスファハン イマーム広場 バザール入り口≫
1988年の3月イランVSイラク戦争の最中イスファハンに滞在していました。
戦火は激しくなり、テヘランにはイラク軍のほこるスカッドミサイルが被弾してシーアモスクの多いイスファハンに疎開していたときの事でした。
世界の半分と詩われた古都イスファハンを訪れる人も無く、ひっそりと人影もまばらでした。
することも無く川に向かうすずかけの並木道を歩いて来たときのことです。前から歩いてきた若者が「サラマレコム」と言って手に持っていた人参を差し出してくれたのです。
そのとき私は躊躇せずにその人参を受け取り口に運びました。戦火に中で精神的にまいっていた私にとって、その人参はとても甘く、乾いた喉と気持ちが潤うのを感じました。
a0051903_23225923.jpg

                      ≪テケ ギュル Tekk Turukemen≫

イスファハンの絨毯商はイランでも有名な商売上手と評判でしたので、注意していたのですがその若者には
なぜか心が癒されるのを感じたのです。そのわけは彼の顔が私と同じ日本人のようであったからかもしれません。「こんなところでこんな時に何をしているんだい?」と度々聞かれることもあったのですが、彼は何も言わずに、もう一本人参を差し出しました。「ホシュマゼル」と答えると「何処から来たの?」と英語で話しかけてきました。最初は日本人と思った彼は、後で知ったのですがトルクメン人の青年でした。
a0051903_23325778.jpg

                     ≪ヨムート ギュル Yomut Turkmen≫

時間はたっぷりあったので、二人で川のたもとにあるチャイハネへ行くことになりました。私達はザーヤンデ川の水の流れを見ながら、互いに片言の英語とペルシア語で話をしました。チャイを何杯も飲み、水タバコをふかしてすっかり仲良くなりました。彼はモタギーと名乗り、イラン東北地方にあるゴンバディカブースと言うトルクメン族が多く住む町から、イスファハンにある美術学校にペルシア書道を習うために滞在していたのです。
a0051903_23423050.jpg

                  ≪ヨムート ケプサギュル Yomut Kepuse Turkmen≫

翌日は彼の案内で「アリ・カプ」王の宮殿の直ぐ裏手にあった、美術学校を案内してもらいました。数百年前に建てられたモスクや宮殿に囲まれた小さな美術学校には、イラン各地から集まった美大生達が居て当時のイランには珍しかった外国人に対して興味深でした。中にはラジオの海賊放送を聞いて憶えたという、流暢な英語を話すシュールレアリストなども居て、多くの質問を受けました。海外の情報に餓えていた先進的な若者達と当時のイラクとの戦争や国際政治のあり方、そして将来のイランと日本の関係について話は尽きませんでした。
a0051903_05337.jpg

                    ≪チョドール エルトマンギュル Chodor Turkmen≫
それから数日間毎日のようにその美術学校に通い、何人かの知り合いが出来ました。トルクメン族のモタギー氏と一番の仲良しは、アルメニア国境にも近いジョルファという町から映画関係を学びに来ていたアルメニア系の男で、映画監督で有名なマフマルバフに似た彼には様々なイラン文化を教えてもらいました。
サントゥールというピアノ線を撥で直接叩く楽器の演奏や、暗い映像と重々しい音楽が印象的な映画館などにも連れて行ってくれました。パワフルな彼らの中でモタギー氏はいつも穏やかで、彼の顔を見るとホットしました。
a0051903_23545715.jpg

                    ≪エルサリ ベシール Ersari Turkmen≫
そのときに経験したことはおそらく今の自分にとって大きな糧となっているでしょう。そしてモタギー氏との出会いでトルクメンとはどんな人達で、何処に住んでいるのかとても知りたくなりました。彼の故郷であるゴンバデ・カブースにも行ってみたいと強く思うようになってのです。しかし、戦争状況が悪化して外国人はすべて国外退去となり、その時はその思いは叶いませんでした。                             (つづく)
[PR]
by caffetribe | 2009-09-22 00:09 | 出会いの旅