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部族の絨毯と布 caffetribe

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部族の絨毯と布

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W大学のM先生のおかげで、大歓迎を受け結婚式の祝宴やバロチスターン大学の先生の招待など連日連夜のご馳走で大満足し、地元のパシュトゥーン族の絨毯商の義理のおじさんのもつバーグ(庭園)で夜のパーティなど夢のような日々を過ごしていたクエッタの日々であった

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パシュトゥーン族の絨毯商と彼の友人達と、アメリカの日本における基地や広島・長崎などについて激しい議論を交わしていた翌日に、ニューヨークの同時多発テロのニュースを当事者に近い考えの彼らからその知らせを聞いたのは、あまりにも皮肉であった。

複雑な表情を浮かべながらも,彼らは暴力と無差別な自爆テロは好くない事であると言った。

翌日、M先生と共にバロチスターン南部へ民族と民俗音楽の調査に同行する事になった。
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この旅では、予想もつかない多くの出来事に遭遇しこれまでの旅でも最もスリリングでエキサイティングなものであったが、そのひとつは本物のオリジナルバルーチ族(ブーラーフィー系)に遭遇した事であった。
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手前右下に座っているおじいさんを偶然にもピックアップトラックの荷台に乗せた事がきっかけで、次々と表れた遊牧民の家族計20名ほどを荷台に乗り込ませ、おまけに連れていた3頭のラクダが勢い良くトラックの前を先導するという場面にでくわした。
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華やかな刺繍飾りを胸と袖口に縫いつけた民族衣装のブーラフィー族の少女。

60キロのスピードで走るラクダの後をしばらく追いかけて、二股の分かれ道で彼らとは分れたが、その後3年前に尋ねたと言うM先生の音楽調査に同行し。

見事なバローチ音楽の真髄に触れる事が出来たのだ・・・。
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    サローズタンブーラを中心にしたバローチファミリーユニット演奏は真夜中まで延々と続いた・・・。

今晩の諏訪市文化センターの演奏を皮切りにイスラム・ミュージックの旅路『ラマダンの夜』がスタートします。クルド族のナゼーリ氏の時と同様会場のじゅうたんを提供しました。
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by caffetribe | 2006-09-30 20:44 | 出会いの旅
アフガニスタンという国を知り、知れば知るほどその国や人々、絨毯や刺繍などの手仕事に魅せられつづけて20年になろうとしている。

最初のきっかけは、絨毯やという仕事で関わったのだが、これまでに様々な縁があった。
政治や思想などの縁で知りあい関わった人もあれば、映画や文学などの縁もあり、学校を建てる人の縁もあれば、古着を送ったりとこれまでに、様々な出会いと別れがあったように思う。

そんな中、ごく最近に関わった事で、嬉しい知らせが届いた。

在日20年で、近所に住むハザラ族のR氏がついに念願の病院を故郷の村に完成させたのだ。
彼との付き合いも15年以上になるのだが、戦争時代には、学校を援助していたが、復興基金で学校に多くの援助が集まった後は病院の建設に力を注ぎ込んできた。

この病院は、さら地の時から少しずつ、本当に自分達の力だけで今回の完成を迎えたのである。
彼の思いもひとしおだろうが、このニュースは、このところの厳しい状況の中では嬉しかった。
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場所はハザラジャード ガズニ県 ジャグリ村というアフガニスタンのほぼ中央に位置する小さな村である。

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元々はR氏の自宅であったこの土地を生かし、基礎からアフガンの伝統的石積みを積み重ね4年間かけてここまで来たのである。
計画は2000年にR氏が帰国した際にロバに乗って1日かけてガズニまで行く途中の病気の老人に、アスピリンの錠剤を与えた行為に、想像以上感謝を受け、同時にこの地域の医療の重要性を感じたことがきっかけとなったようだ。
2001年以降当初はアフガン空爆などで、比較的アフガンに対しての関心が高く募金も結構集まったのだがここ1~2年は関心がすっかりイラクに移り、厳しい状況であった。
また、共同で作成したポストカードの売り上げ1000円も以前はたくさんのセメントや鉄筋が買えたのに今では、半分以下の価値になってしまったという状況の変化が建設を遅らせた。
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現在もまだまだ医療機器やドクター・看護婦さんの給料がままなりませんが、最初は何が出来るのか不安で様々な問題を起こしていた地元に人々にも希望の光?(雇用など)がみえたのかずいぶんと協力的にまた、集まることが多くなったようです。

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まだまだこれからのイマームアリ病院ですが、多くの地元の人々の嬉しそうな笑顔が何よりです。
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by caffetribe | 2006-09-29 19:25
飛行機に乗り込むと、中は比較的空いていた。
座席を探そうとボーディングパスを見ると、なにやらペルシア語で走り書きのような文字。
とても理解できそうもないのでアテンダントの方をみるとにやりと笑い目配せで、好きなところに座ればとでも言いたげだった。
周りにいる民族衣装の大男達も、どうやら勝手に座っているようだ。そうかこの飛行機は自由席なのか?イランでは、かなりローカルな国内線でも、飛行機は指定席が多い。これは国際線なのに・・・。

二人がけ席ににゆったりと座り離陸を待つと、先ほどのアフガン人が前の座席に座った。
彼はドイツ語とダリー語、こちらはほんの片言のペルシア語なので、お互いにどこまで理解しあえたのかは神のみぞ知るところだが、彼がドイツのハンブルグで洋服のビジネスを始めて結構調子が良い事、その服の生地をパキスタンで仕入れるために帰国すること。
久しぶりの家族に会えるのをとても楽しみだと言っていた。またドイツ製品はメイドインジャパンと同様大変に人気で、クエッタ~チャマン経由でアフガニスタンに持ち込むらしい。おそらく税金がかからないのだろう。
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ザへダン給油などで暫く待ってから、いよいよアフガニスタンをかすめてクエッタだ。
途中黒い岩が多く荒涼とした、シスターン~バルチすターンを見下ろしながら、そういえばこの辺りでパキスタンは核爆弾の実験を行ったのだ、などと思っていると飛行機は静かに降下を始めまもなくクエッタに到着した。

クエッタの空港では、ヒンディ語・ウルドゥ語はもちろん、バルーチ語や究極のブーラフィー語を話すW大学M先生が迎えに来てくれるらしい。先生の専門である民俗音楽の調査もかねてバルーチ族の暮らすバローチスタン南部にもうすぐ行けると思うとワクワクしてきた。
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空港では歓迎のミルクティをご馳走になり、気持ちもリラックスしてきたところに、大きな荷物をカートにに積んで彼が降りてきた。
マシャドで貸したお金をリクエストしようかどうしようかと、少し迷ったが、彼を迎えに来た男がいたので話をすると、早速彼からのパキスタンルピーで20ドル分を即座に返してくれた。
これで益々気分がよくなり、今回の旅の行く先が明る見えてきた・・・。
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by caffetribe | 2006-09-17 21:09 | 出会いの旅
マシャドからクエッタ行きの飛行機は早朝の7時だったのだが、友人のサレヒが何時になく早めに空港へ行った方がいいとせかすので、3時に空港に向かった。ところが夜中の3時に空港の手前から信じられないような大渋滞が待っていた。マシャドの飛行場はこれまで何度か利用していたのだが、こんな事は初めてだ。
市内からは15分ほどで着くのだが、空港の手前からまったく車が動かなくなってしまった。渋滞は延々と空港の駐車場まで続いているようだ。時間に余裕があったので暫く待っていたのが車は動き出しそうな気配なし。いよいよしびれを切らし、荷物をトランクから出して歩き始める事にした。驚いたことに、空港周辺は車と人でごった返している。それも夜中の3時に・・・。
少し焦り始めて,空港へ入るもののどこもかしこも満員御礼の人だかり。
聞けば、多くがメッカへの巡礼者。そしてそのハジにあやかれとばかりの見送りの家族・親類・友人などが溢れかえらんばかりに、空港に屯していたのだった。
こちらもあわてて、ローカル空港でのクエッタ行きのチェックインカウンターを探すのだがどこにも見当たらない。身動きもとりにくい状態で、まさに右往左往していると。サレヒがどこからか扉を見つけ、その向こうに国際便のカウンターがあるという。パキスタン方面でも国際線なので、荷物のチェックやパスポートコントロールなどで、2時間前にチェックインなのだが、なんだかんだでもう6時に近くなっていた。あわててクエッタ行きの列に並ぼうとすると、大きな荷物をいくつも抱えた民族衣装のパシュトゥーン人の団体が前にいる。これは時間がかかりそうだ・・・。
彼らの多くは聖地マシュハドのイマームレザー廟に巡礼に来ているのだろうか、当然しっかりとトレードもしていくのだろう。暫く待ってやっと順番が来たのだが、前にいた大きなスーツケースを4つも抱えた男が、例によって荷物検査で引っかかる。
明らかにオーバーウエイトなのだが、どうもそれを支払う、イランのお金を持っていないらしい。後ろの客などお構いなしに口論がはじまった。聞けば、ドイツからイランを経由してカンダハールへ向かう在ドイツのアフガニスタン人のようだ。ドイツマルクはあるが、税関は受け取ろうとしない。
てなわけで時間はどんどん過ぎていく・・・。らちが明きそうにないので、しょうがない帰ることは無いかもしれないが、ポケットにあったありったけのリアル札を彼に貸すことにした。
20ドルほどだが、これでなんとか税関を通過する。何時になく早く空港に行けといってくれたサレヒに感謝する。
今回の目的のひとつは、このパキスタン経由フライトがイランの古いモノをチェックするかどうかという事であった。パキスタン・アフガニスタン人が多いので重量には厳しいが、中味はあまり見ないようだ。ただいつもこんなに混み合っているのかどうかは不明だが・・・。
入念なパスポート・ボディチェック済んで、ほっとすると猛烈にのどが乾いてきた。
ジュースを買って少しぼーっとすると、さっきのアフガニスタン人が隣に座った。
聞けばドイツから大量の衣料品を持ってアフガニスタンに帰るらしい。先ほどのお金はクエッタについたら知人が迎えに来るのでそのときに返すと言う。なかなか律儀な男だった。
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by caffetribe | 2006-09-15 18:34 | 出会いの旅
昨夜は久しぶりにゆっくりとテレビを見た。
早いもので世界を変えた、同時多発テロ=9.11から早5年が過ぎてしまったのだ。
何度も何度も繰り返されるビル崩壊の映像は、時間が経てばたつほど現実から遠ざかり、空虚なものに思えてくる。もちろん肉親を失った方や、直接の被害に遭遇された方にとっては、一生背負ってく重い十字架のようなものなのかもしれないが・・・。テレビでも遺族の方々のその後の苦しみを紹介していた。

キャスターの筑紫哲也氏が繰り返し、9・11とは世界中の人々が共通に『あの時になにをしていたのか』を問える事件であると言っていたが、やはり悲劇でしかそのような人類の共通意識が持てないかのと思うと少し寂しい気がした。

さて、私はあの時なにをしていたのだろう。

5年前は、8月中旬から一月ほ仕入れで、イラン~パキスタンを訪れていた。数ヶ月前に知り合いのアフガニスタン人から、イランのホラサーンの州都マシュハドから国内線でザへダンを経由してパキスタンのクエッタまでのフライトがあるという情報が入った。

メインの仕入先でもあるシーア派最大の聖地でもあるマシュハドは、イランのなかでも最も好きな街でもある。テヘランでアーセマンエアというローカル航空で周一便のマシャド~ザへダン~クエッタ往復のチケットを手に入れた。170$程だったが、少々不安だったのは帰りの予約はは現地で入れて欲しいと言うことであった。

その時の旅は大変に充実していて、イラン北西部ではシャーセバン族に出会えたり、ホラサーンでは遊牧するクルド族一家に遭遇するなどラッキーな事が続いていた。マシャドではモンゴル系イラン人の友人達とすっかり仲良くなり、修理も習ったりいい雰囲気であった。

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マシャドのイマームレザ廟に向かって正面にあるメイダンを左に進むと、ホスラビノウという通りがある。観光客の多い土産屋や絨毯のバザールなどが数件ある通りの、中2階に友人のサレヒーが店を構えていた。店といってもたたみ1畳ほどの狭い階段の踊り場のような場所で、天井も低く頭を下げないと立っていられいような処だ。

しかし、大通りに面しているので手が空くと職人達は上から通りを見下ろして、聖地に世界中から集まってくる観光客(ほとんどがイラン人だが)を眺めていた。だからそんな狭い場所にも係わらず、そこには様々な連中がよくたむろしていた。当時はまだ、日本からのバックパッカーも時々いたらしく、日本語でエクスチェンジはどうやって書くのかと頼まれ、一緒に目立つ蛍光色のステッカーを買いに行きそれを『両替』と大きく切り抜いて窓ガラスに貼り付けた。

そう戦時下にあったアフガニスタンもタリバンの制圧により一時的ではあるが、落ち着いていて欧米人や日本人などのバックパッカーなども比較的自由に歩きまわれた最後の一瞬だったのかもしれない・・・。

この翌日からザへダン経由でアフガニスタンをかすめて、クエッタまでの忘れられない旅がはじまった。  
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by caffetribe | 2006-09-12 18:23
a0051903_17145458.gifこの美しく完成されたボテ文様はインド~アフガニスタン~イランのいわゆるアジアに住み着いたアーリア系人種の間で生まれ次第次第に洗練の度合いを深めて行ったように思える。
もちろんカシミールショウルがその代表的な作品であるだろうが、その背景にアクバル帝のムガールがあり、ペルシアのカジャールなどでも盛んにこのモチーフが取り入れられてきた。
世界のテキスタイル文化のなかにに、インド更紗、カシミールショウル、ペルシア絨毯は外せないモノと思えるがその3つに共通して表現されるのもこのボテ文様である。

それではその歴史的はいつ頃からなのだろう。
布や絨毯は残念ながら500年を越えるものはほとんど残らない。(アンデスやパジリクなど奇跡的な好条件や盗掘と言う災難にあわなければその例外は多少あるものの・・・。)

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起源前4世紀頃のサカ族の王の墓から出土した皮製の水筒に表現されたモチーフ。パジリク古墳(シベリア)
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アフガニスタン北部バルフ地方の、The Nau-i-Gombadの柱に見られる彫物。
9世紀のイスラム教初期に建てられたという、聖者を祭った云われるこのモスクに刻まれたまにボテの造形。

毛織物や絨毯では、断片などを除いて17世紀以降のものしか見ることはできないようだが、それ以降のインド=ペルシア両世界には、様々なバリエーションに変化しながら多くのボテ文様の華が開いたといえそうだ。
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インドーミール絨毯。インド絨毯の最高級品とされるミールカーペットはUtter Pradeshにおいて成功し世界にその名をとどろかせる。この絨毯はよく見ると細かいボテの連続と中央のメダオリオンと四方のコーナーの構成によるが、この小さなボテだけ見れば、インド更紗のフィールドを見ているようである。それにペルシア絨毯の典型的な構成がうまくミックスされている。
■この絨毯、及び上の写真はP.R.J.Ford著の『The Oriental Carpet』からの引用です。この本は絨毯マニアのM氏もご推薦の絨毯研究書であるが、文様ごとに絨毯を分類してあり、そのトップとして普遍的デザインとして『The Boteh』が多くの絨毯と共に紹介されている。
ちなみに上のThe Indo-MirCarepet はこの本の表紙でもある。

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これも大変に洗練されたタブリーズ産の全体がボテ文様の絨毯。
これを収集したイギリス在住のイラン人Essie Sakhai 氏によればと当時ヨーロッパで大流行していたカシミールショウルにあやかって、輸出用に織られたのではないかとしている。

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シルバン絨毯コーカサス南部。この地域にもMarasaliとして知られる祈祷用の絨毯や敷物にこのような周りがギザギザの松ぼっくりのようなモチーフのボテ文様が登場する。このようにインド~中央アジア~アフガニスタン~イラン~コーカサスなど非常に広い地域で見られるボテ文様であるが、トルコ系やモンゴル系よりもアーリア系の人達に特に好まれて来たように思える。

この辺りもう少し掘り下げてみたいと思っています。
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by caffetribe | 2006-09-03 18:19 | ボテ文様(ペイズリー)の系譜
以前に紹介した、ボテ文様~ぺーズリー文様へでは、おもにムガールを中心としたカシミールショウルに注目したが、オリエント地域の絨毯の文様にもこのボテ文様は多く、西アジアから西南アジアにの人々に大変に愛された文様ではないかと推測できる。

前回の「capet magic」で分類されていたように、絨毯には部族的なコミュニティで織られたものと工房でデザイナーと織り手という分業的職人体制で織られるものがある。
一般的には都市工房的、アラベスクな華麗なデザインと部族的、幾何学なシンプルで力強いデザインとに区別できるのだが、このボテ文様は両者に共通して表現され、その両方ともがバランス良く見事に美しい。

最初は部族的絨毯の中に見られるボテ文様を紹介してみる。
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アフシャール族 ホースカバー(馬の背あて) スマック織り
カシミールのショウルなどと比べると、幾何学的でぼてっとしていて少し野暮ったい感じもするがよく見ると一つ一つがまぎれもなくボテ文様になっている。一番上の一列の小ぶりなものが特にペーズリーらしさを出している。

■アフシャール族はイラン南部のトルコ語系の遊牧民であるが、メリハリのはっきりした力強い部族らしい絨毯やスマック、ソフレ(ナン用)を織る事で知られている。織り技術も大変にしっかりしたもので、彼ら遊牧地に近いシルジャン産のスマック織りの敷物は現在イランの輸出用マーケットでも評価が高く,絨毯と共に世界中への輸出品として年々価値が高まっている。
もちろん販売用でない遊牧生活のためのオリジナルの、ラグやバックの表皮などは、もともと数が少ない事から貴重なコレクターズアイテムになっている。

a0051903_19733100.jpgこれは以前に紹介したアラブ系で5つの部族の連合体として知られるハムサのラグ(パイル)である。
南イランを代表する遊牧民のカシュガイ族にも同じような大きなお母さんボテの中に、小さな赤ちゃんボテが包み込まれたような、重なるボテデザインの絨毯が見られるが、この2重のボテ文様が遊牧民の好みのようだ。これも19世紀のカシミヤショウルに表現されている文様がベースになっているようだ。
カシミールとイラン南部は繋がりが無いようだが、イラン南部のケルマン地方にはボテ文様だらけのテルメと呼ばれる繊細な毛織物が存在する。ボテ文様で繋がる布があることで、この地域にボテ文様が多くつたわったのだろうか?
一説によるとイラン南部は赤の染料となる茜の生産地で、人気の高かった赤いショウルを織るための染料がケルマン地方からもたらされ、見返りにボテ文様のショウルが伝わったとも言われている。比べると、文様の配置、一つ一つのボテ文様の大きさなどが部族的大らかさというか、いい加減さが洗練の極みと見えるカシミールショウルやなどとは対称的である。

イラン南部 ハムサ連合 絨毯(パイル)

この他にもセネという古い名称で親しまれている、イラン北部のクルド族の多い町サナンダジの見事な綴れ織で織られたキリムにもこのボテ文様は登場する。

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セネ(クルディスタン) 綴れ織り(キリム)

向き合ったツインのボテ文様が愛らしく、ボーダーの明るい格子のようなモチーフが中央を引き立たせている。やはりペルシアの色彩感覚はとてつもなく洗練されている。
ある人が、シュタイナー曰く「ぺルシア文明が、人類に革命的な色彩革命をもたらした」といっていたが、このような表現を見ているとそれが、大変納得できる。

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ベシール トルクメンエルサリ系 絨毯(パイル)

また、これは大変珍しいトルクメン系部族のボテ文様である。
もちろん都会的感覚をもつベシール系で、中央アジアのブハラ周辺のものではないかと思われるが、トルクメンのギュル文様にも影響を及ぼすほどの、ボテ文様はある意味、呪力的パワーを持つ文様ではないかと想像してしまった。

確か中沢新一氏が最新の数学者の研究から出てきたフラクタクル曲線とこの曲線との比較をしていたような記憶が・・・。
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by caffetribe | 2006-09-01 20:03 | ボテ文様(ペイズリー)の系譜