祇園祭りと絨毯
京都の祇園祭りもそろそろクライマックスの山鉾巡行が17日夜に行われるようです。
8年ほど前に出かけたのですが、その時は奇しくも台風が近づいてきているという不安定な状況でしたが、今年2009年は天気はよさそうです。でも今頃の京都の町はさぞかしホットなことでしょう。
≪月鉾 巡行≫ 写真 HALIマガシンより引用
祇園祭りの縣装品にかなり古い絨毯が飾られているという事を知ったのは15年ほど前のことです。
最初で最後かもしれない規模の絨毯展が大阪の民族学博物館で行なわれました。
アルダビルカーペットやペッゾーリの狩猟文絨毯など‥、現存では世界最高レベルの絨毯が数多く並んだ、信じられない展示会でした。
この中で負けず劣らない絨毯が、この祇園祭の山鉾に掛けられた縣装品としての古渡り絨毯でした。それらは、ムガール時代のインド産やペルシア最盛期の逸品といわれる通称ポロネーズ絨毯などで、世界でも数点しか残っていない貴重なものばかりでした。
≪月鉾 17世紀 ムガール絨毯 前掛≫
この絨毯が海外の研究者などにも、最も高く評価された月鉾の前飾りのムガール朝時代に織られたと
思われる絨毯です。これ以外にも油天神山・岩戸山・函谷・北観音山・鶏・長刀・放下・南観音山など
山・鉾にオリエント地域で織られたと思われる絨毯が飾られ、その数は30枚にも。
≪山鉾左右の懸装品 胴掛 ≫
山・鉾の前後左右に飾られる絨毯はゴブラン織りや綴れ錦などと並んで、伝統的にもかなり古くから祇園祭に登場しているようだ。
ちなみに北観音山の絨毯は、ペルシア文化の影響の濃いムガール朝時代のインド産のものが多く、美しい建造物や染織文化の花開いたムガールならではの、華やかさをもってる。
ムガール朝絨毯はパキスタンのラホールなどが中心産地で、今もラホールでは絨毯織りの伝統はしっかり残っている。
ただこの絨毯達も日本では長い間、ペルシア絨毯(イラン製)と思われていたようである。これらの絨毯の多くがペルシア絨毯ではなく、ムガールのものだということがわかったのは、比較的新しくアメリカのメトロポリタン美術館の研究チームが調査を行い、有名な絨毯達がムガール時代のインドで織られたことがわかったようだ。この研究チームのリーダーは当時メトロポリタン美術館の東洋染織研究のトップであった梶谷宣子先生という京都在住の研究者であったことも面白い事実である。
これだけまとまった数のムガール朝の絨毯がほぼ完璧な状態で保存されていたということは逆にとても珍しく貴重な所蔵品としての価値は高く評価されたようだ。
≪ムガール朝絨毯 北観音山 後掛 17世紀末≫
驚くのは、これら絨毯文化の最盛期に織られた絨毯がほぼ完璧な状態で保存されていることである。
祇園祭を訪れた際、無理を言って懸装品が保存してある蔵を見学させて頂いたのだが、絨毯を保管するために絨毯が折れ曲がらないような大きさの特注の桐箱が作られその中に、吊るしてしまうという気の使いようにさすが日本人の細やかさと納得したことを憶えています。
このような心使いがあったからこそ、高温多湿な日本でもこれらの絨毯や懸装品が状態良く残っていたわけで、海外での評価も上がったといえそうだ。イギリスの絨毯研究紙「HALI」マガシンも1994年に取材に来て月鉾の絨毯はその表紙を飾っていました。
≪放下鉾保存 胴掛 17世紀前半≫
この絨毯は以前紹介した「ヘラティ文様」の源流のようなモチーフが織り込まれている。絨毯中央部にある中心柄を囲むように4枚の葉のようなモチーフが見える。
世界でも貴重といわれるムガール絨毯が日本に、これほど多く残っているのはどうしてなのか?
日本に於ける数少ない絨毯研究者の杉村棟氏は、「絨毯=シルクロードの華=」のなかで、江戸期の日本が
東インド会社などを通じて西方諸国と海上貿易をしていたのではないか?という見解を述べられています。
実際にこれらの絨毯の年代を特定する際にも、これら飾り物の寄進、購入、補修などの明細が記入されている寄進帳に記された年代が大きな証拠となったこともあげられています。
この暑さを感じると、祇園祭を思い出し、この暑さのなかしか見られない貴重なアンティーク絨毯に思いが馳せます。